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活動報告

2020-09-10 16:00:00

(資料)

pdf 報道発表資料 2020年9月10日.pdf (0.69MB)

 

(QA…お電話でお問い合わせいただいたQとその回答)

Q.枝野代表の印象と期待することは何か?

A.自分の言葉で話す人物だという印象。リーダーシップを期待する。

Q.取り組みたい政策はどのようなものか?

A.経済政策。賃金を着実に上げていくことと、積極的な財政出動で雇用と暮らしを支える。

Q.静岡5区の観点ではどうか?

A.静岡5区は自動車をはじめとする製造業の裾野が広い。大きな構造変革があると想定。働く人目線で支えていきたい。


2020-08-20 20:00:00

旭化成労働組合富士支部様

役員会議に出席させていただきご挨拶させていただきました。

 

ありがとうございました!

旭化成さんといえば私の生まれ育った伊豆の国市にも大仁工場があります。

私が子供のころは東洋醸造さんでした。およそ35年前に瓶入りハイチューのハイリキを発売したときは衝撃的に売れてましたね。

長岡や韮山のどこの家にも水色と黄色の空き瓶があったものです。

 

さて私もこれから選択と決断をしてまいりますが、いずれにしても働く仲間の幸せが目的であり、

働く人と生活者の声を国政に届け実現する政治を目指すことに変わりはありません。

どうぞよろしくお願いいたします。

 


2020-08-17 07:00:00

8/17 7:00~ 三島駅南口

8/18 7:00~ 富士駅北口

8/20 7:00~ 岩波駅前

8/21 7:00~ 三島駅北口

よろしくおねがいいたします!


2020-08-16 17:02:00

大仁体育館で行われましたジュニアバレーボール練習会でご挨拶させていただきました。

ありがとうございました!

暑い中ですので熱中症に気を付けてくださいね。

私も中学生時代バレー部でした。

おかげさまでその後高校、大学、会社員でもスポーツ大会で活躍できました!

みなさんはジュニアからですから、レベル高いですよね!

全国大会や国際大会での活躍目指して、がんばってください!!

 


2020-08-13 20:00:00

Norikazu ほっと LINEは毎週木曜日15:30~放送中です!

8/13放送分のダイジェストです。

 

Ⅰ.戦争の記憶

 

 8月です。日本人にとってはお盆で祖先に感謝、再会するとともに、永遠の平和を願うという、祈りの季節ではないかと思います。

今日はその平和への祈りをこめて、戦争の記憶をお話ししたいと思います。いろいろな人から語っていただいたお話です。

 

Ⅱ.長崎の記憶

 

 私は10数年前に結婚しましたが、実は妻の両親の実家は長崎でした。入籍する直前に祖父母に会いに長崎に行きました。

 母方の祖父が迎えに来てくれて、長崎市内から北に40キロほど離れた長崎空港から、途中祖父の生誕地である諫早に寄ってくれました。諫早名物のうなぎをごちそうしていただいたのですが、1957年の諫早豪雨で氾濫した本明川を見せてくれて、600人近い犠牲者が出た大水害で、長崎は豪雨との闘いの歴史だと教えてくれました。

 祖父の居宅のある長崎市内に帰って、はじめに案内してくれたのは、平和公園と原爆資料館でした、そして浦上天主堂という、爆心地すぐ近くの丘の上にある教会に案内してくれました。

 

 長崎は南北10キロくらい、北側が長崎大学や平和公園のある浦上エリアです。真ん中南寄りに長崎駅があって、そのさらに南側がグラバー邸や大浦天主堂があり、港を見下ろす丘のある大浦エリアです。大浦エリアと長崎駅の間くらいに新地中華街だとか、出島、眼鏡橋といった観光地、史跡があります。そのあたりは山がちの長崎のなかでも少し広がった土地があって、その先、南西、南、南東はまた山のふもと伝いに枝分かれした町が続いています。なので長崎の市電は北の終点は一つですが、南の終点は3つあります。ちょうどグラウンドをならすトンボみたいな形で、北から南に向かうときはどの電車に乗ったらいいのか最初は迷います。

 長崎港は海から入ると、島々に囲まれた奥深くの入り江状の港になっているのですが、港を含む街の両側が山に囲まれたすり鉢の底のような地形です。稲佐山等夜景でも有名で、坂道の街並みは映像でもおなじみですね。

 一説によると、その山に囲まれた地形も、原爆投下目標を決定するうえで決め手になったともいわれます。

 その長崎市内の北部浦上エリア、今の平和公園の像の真上にあたる場所で、1945年8月9日午前11時2分に原爆が炸裂いたしました。

 

 祖母の話です。

 父方の祖母ですが、そのころ大浦の三菱重工に勤めていました。たまたま8月9日は病気の治療で諫早の病院に行っていたそうです。長崎に原爆が投下されたときは20キロ離れていた諫早でも大爆音と地響きがあったそうです。夕方には諫早の小学校にたくさんの被爆者が運びこまれました。祖母は偶然にも被爆を免れ九死に一生を得ました。

 祖母の妹は長崎高等女学校の学生だったのですが、学徒動員で爆心地から1.5キロの造船所で働いていました。幸い外傷は少なく、浦上から市街の東側の山伝いに恐らく6~7キロ、市内はまだ燃えていて、夜まではだしで歩いて大浦の自宅に戻りました。途中で畑のカボチャを口にして、それは爆心地近くの畑だったのですが、吐き出してしまったそうです。

 大浦の自宅は無事だったのですが、長崎は山が入り組んでいるので、市内でも直接熱線や爆風を受けずに助かった街があったということです。

 曾祖母と祖母の姉が諫早にいたのですが、2~3日後に妹を迎えに行き再会を果たしました、3人で市内から諫早に向かったところ、途中被ばくを免れた女学校のスミダ先生とすれ違いました。スミダ先生は生徒の安否確認のため市内に入ったのですが、二次被爆で1か月後に亡くなったそうです。

 

 祖母のご主人の弟さんの奥さんのお話ですが、えつこおばさんといって、生前に私もお会いしたことがあるのですが、長崎医科大学、今の長崎大学医学部病院で看護師をしていて被爆、ガラスの破片で足が不自由になったそうです。お会いした時に、戦争を一生恨んでいるとおっしゃっていました。5年くらい前に亡くなりました。

 

 その祖母ですが、父親の仕事の関係で昭和2年に上海に行き15年以上暮らしました。その父親は三菱重工から三井物産に転じて上海に赴任したそうです。戦前は今よりもむしろ海外に出ていく意欲が高かった時代だったのかもと思わせます。祖母は修学旅行も中国の済南に行ったそうです、黄砂はひどいが水が綺麗な街だったそうです。

 祖母ときょうだいは上海で青春時代を過ごしましたが、徐々に世界は再び不安定なものになり、昭和12年の日中戦争、昭和16年の太平洋戦争開戦となりますが、商社の情報力で戦局が不利なことが見えてきたので、昭和19年3月に日本に戻りました。青島、大連から釜山に出て連絡船に乗ったそうです。攻撃に備えて救命胴衣を着用しての乗船でした。玄界灘はすでに連合国の潜水艦の勢力下で、祖母の友人のいとうさんが乗った別便は撃沈されました。祖母の船は無事下関に到着し、長崎に帰れました。

 

 祖母の夫だった祖父は通信兵としてフィリピン戦線に赴きました。爆撃時に防空壕に入れなかったのですが、その防空壕に爆弾が直撃していたということで、祖父もまた九死に一生を得ました。

 

 はじめに私を平和公園に連れて行ってくれた母方の祖父ですが、戦中はなんと清水市にいたということです。船舶か航空の勉強をしていて、ひょっとしたら今の東海大学の前身かもしれませんが、駿河湾を北上する米軍機を悔しい思いで見ていたと話していました。

 

Ⅲ.伊豆の記憶

 

 米軍機が富士山を目指して駿河湾を南からやってきて東へ旋回して東京へ行った。駿河湾に米軍の艦隊が侵入していた。等、伊豆の人からもいろいろなお話をお聞きします。

 

 修善寺の方のお話ですが、沼津か清水かを攻撃する艦砲射撃の轟音が修善寺まで聞こえたそうです。東京を攻撃した帰りの米軍機が、機体を軽くするために無差別に爆弾を落とすことがあって、灯火管制で暗くしていたのですが、真っ暗な場所にも関係なく爆弾を落としていったそうです。不発弾でけがをした友人もいたということです。

 

 湯河原の方のお話ですが、女学校時代、学徒動員で軍需工場に勤めていて、時々米軍機が機銃掃射していくことがあったそうです。朝早く工場に向かったお友達が不幸にもその犠牲になり、湯河原の駅でも犠牲者が出ました。東海道線の線路がやられて、丹那トンネルから三島まで歩いた同級生がいたとか。夜は小田原や平塚のほうが空襲で燃えている様子が見えたそうです。

 そのお父さんはいつ召集されるかと覚悟を決めていたのですが、招集はなく、ずっと湯河原にいて、軍用の燃料にするために松の根っこから「松根油」を集める作業をしていたそうです。そんな国が相手にしていたのが、いくらでも石油の出る油田を抱える米国だったわけです。

 その方は戦後すぐに横浜の大学に行くのですが、横浜の街は爆弾の穴だらけだったそうです。

 

 伊豆の国市あたりの方々は中国に出征される方が多かったそうです。南支、中支といった方面に出られて、母の友人のお父さんも亡くなったり、母の父、つまり私の祖父も、大けがをして帰ってきて、体中傷だらけで、リンパ腺から細菌が回って苦労したということです。

 

 父の話では、私の父の叔父、その後養子縁組したので、父の養父、私の祖父となる方は日本鋼管に勤めていた技術者で、海軍機関士としてニューギニアに行きました。日本を出たのが真珠湾攻撃の部隊と同時だったそうですから、最初期に戦地に赴いたことになります。斥候として先乗りで調査するのが主な任務で、少人数の部隊で島々を渡り歩いたのですが、激しい戦闘の現場ではなかったので、現地の人に助けてもらいながら、海で貝をとったりして、人の大きさくらいの貝もあったそうですが、それらを食べて生き延びました。時々艦砲射撃の標的になることもあって、負傷し落命する仲間もいたということです。当初3年くらいで帰る予定でしたが、戦況が長引いて帰還も遅れ、帰ってきたのは終戦後でした。本隊や偉い人は早いうちに大きい船で帰ったので途中撃沈されることも多かったのですが、祖父は現地の人が使うような小さな船で帰途についたそうです。帰ってこれたのは昭和21年になって、父が農作業で田んぼに連れていかれていた時にひょっこり帰ってきたそうですから、それは春の田植えか秋の稲刈りのシーズンだったのではないか、ということでした。

 

Ⅳ.つないでいくこと

 

 これらは、戦争の記憶は自分なりにつないでいかなければならないと思って、機会があるとお話を聞いてメモしてきたものです。あらためて、平和の尊さ、唯一の被爆国として日本だからできること、長崎を最後の被爆地とするために世界に何を訴えていかなければならないかを考えていきたいと思います。

 いま、多くの若者たちが各地で戦争の記憶を語り継ぐ活動に立ち上がっています。応援していきたいと思います。

 

 三島に来て、例えば駅北の文教町はかつて軍の拠点だったとか、沼津港から下土狩を通って御殿場に向かう道は軍用道路だったといったお話も聞いたりします。いろいろな記憶を風化させないように、これからもたくさんの人に聞いて語り継ぎたいと思います。また、あんな話こんな話、みなさん教えてくださいませ。

 

 それではまた来週。

 


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